西国街道をゆく

わたしの住んでいる所の20メ−タほど北側に西国街道が通っています。

街道といっても幅5メ−タ足らずの道で、時々、他所からきた車が入り込むと、

すれ違いが出来ず、通行でもめたり、側溝へ脱輪するような狭い道筋です。

 
箕面市半町(ハンジョ)交差点より西を望む   半町の本陣址(自動車学校になっている)

 

平成14年10月のある日、自転車で何気なくこの街道を走っていて、

ふと、子供のころ、この街道を自転車で我が物顔に走っていたことを思い出しました。

また、かっては、菅原道真が大宰府に赴くとき、

足利尊氏が、新田義貞が、楠正成が東奔西走した街道であることを思い出しました。

 

  
左 昆陽宿(こやしゅく) 右 郡山宿(こうりやましゅく)

  そこで、なにとはなしに、箕面の半町(はんじょうでなくはんじょ)から東に向けて走り出した。

途中、幾度と無く、引き返そうと思ったが、普段、車窓から見る風景でなく、

自転車走行で眺める風景はかくも楽しきものかと走るうち、とうとう、京都まで来てしまった。

 旧家の状態を保存して、景観をたもっている邸宅を眺め、町並みや、

道標の一つ一つが新鮮な印象として写り、ほんとに楽しい走行でした。

 

西国街道の探索は是非、自転車で行って下さい。

自動車では道が狭く、駐車も出来ません。

単車やスク−タでは、一方通行が多く走行困難です。

自転車が難しい場合は、My Footでの歩行です。

阪急電車や、JRを利用して、最寄の駅から歩けば、

必ず、新しい発見があり、たのしい旅、探索が出来ることを、保証します。

 

 
牛廻しの神様(箕面市半町)            坪・・弁慶の鏡水(復元)

 

 
阪急箕面線桜井駅前通り       牧落の高札場と道標(箕面市)

西国街道に平走して国道171号線が走ってます。

私が子供の頃は、この国道を西国街道といい、

旧西国街道と呼び分けていました。

現在では、国道は イチ・ナナ・イチ とか イナ・イチ と国道番号で呼ばれています。

国道は、田んぼの中を広い道路が走っているというイメ−ジで、

車も少なく自転車で走り廻っていました。

それから、急に開発が進み、 ”あ” と、いう間に、国道の周辺には、

いろんな店や、建物がひしめきあいました。

車も渋滞し、歩道を自転車で走ると、排気ガスで頭が痛くなります。

ひらけゆく国道周辺をよそ目に、旧街道は、うまいぐあいに、ひっそりと昔のたたずまいを残しています。

また、この街道沿いに住んでおられる方々のご尽力もあって、むかしの街道のイメ−ジを保っています。

そんな、すばらしい西国街道を探索してみませんか。

 

 
萱野交差点 西国街道の表示がある          萱野三平邸(箕面市)

 


誰が、西国街道をこんなにしたのか?
箕面市今宮(後ろは171号線)

 


勝尾寺参道口の大鳥居
交通事故と大震災の被害で崩れそう


H15-3月建立 ? 額はまだない
H15年4月29日に来たときはまだ古い鳥居だったが?


H16年4月9日 額が掛かっていた。

 
    道標と楠公ゆかりの井戸址 (左 京ふしみ道)(楠水龍王之地) (箕面市小野原)

 

 
郡山宿(こおりやましゅく)本陣址(椿の本陣)(茨木市宿川原)

 

 
椿の本陣東側の道標

 

現在この街道の道幅は、改修により、様様であるが、

残された状況から主に二間(3.6メ−トル)ぐらいでなかったかと思う。

この道幅で、菅原道真が大宰府に下向したとき徒歩(カチ)10人、

荷駄2頭とすると、二列縦隊で10メ−トルぐらいの隊列であったろう。

秀吉の中国大返しは、騎馬50騎、歩兵1万として、

四列縦隊でも2.5から3.0キロメ−トルの隊列となる。

また、400名の長州兵に守られた七卿落ちは、

三列縦隊で150メ−トルぐらいの隊列であったろう。

義経、弁慶の場合いは、・・・・・・考えるだけでも楽しくなってくる。

 


のどかな風景だが、荒木村重・和田惟政の白井河原合戦跡

 

 
西国街道下りは名神高速道路をくぐり、左に折れる。
街道を間違えないように注意(茨木市太田付近)

 

 
街道の雰囲気が残っている太田の一里塚

 


継体天皇陵(茨木市太田)

 

 
芥川の一里塚(高槻市)         祠と石碑(高槻市)


梶原の一里塚


桜井駅跡(島本町)

 

 
楠木正成の子わかれの碑

 

 
関大明神社(摂津国と山背国の関所跡) 街道がカギ状に曲がっている。京都府側
左:京都府  右:大阪府*********************************

                                  

   
交通標識の下に道標あり(京都府大山崎)

 

 
            一文橋         くしくも足利尊氏の紋所をつけたトラックが走ってきた。

 


向日市

 

 
神足(こうたり)の商店街         火のみやぐらのある風景

 


九条御前(171号線と西国街道の交点)左側が西国街道下り。

 


ゴ−ルの羅城門跡(バス停)
この裏の公園に石碑があるが、工事中で拝観出来ず。

 


東寺の五重の塔

 

京都には祖母の姉がおり、子供の頃、父に、母に、叔父叔母につれられて、たびたびおとずれました。

近くの子供と、 「姉さん、六角、蛸、錦」

「カラス、両替、室、衣。  新町、釜座、西、小川」

と通りの名前を歌で覚えたことが、いまだに記憶にのこっています。

(北から東西の道が 小路、条通り、六角通り、薬師通り、小路 とつずき、

南北へは西に向かって丸通り、両替通り、町通り、棚通り とつづきます。)

これは、京人が考えたうまい方法で、道に迷わず、目的地にたどりつけます。

 

祖母の姉の家は、大きな呉服屋の別家さんで、 六角通り室町西入ル でした。

六角通りに面していて、室町通りの西側 という所在地で、

京人なら住所を聞いただけでその地がうかぶようです。

これが、室町通りに面していて、六角通りの北側なら、 室町通り六角上ル(あがる) となります。

同じく、南側なら、下ル(さがる)です。

京人は、他郷人に冷たく、簡単には心を開いてくれず、地名を聞いても、その道筋を簡単には教えてくれません。

家内は、烏丸(からすま)を カラスマル と言い、他郷人扱いされていました。

 

有名な 「考えさして、おくれやす。」 とか 「京の ぶぶずけ」 は、

京都の長い歴史が生んだ、わが身を守る生活の知恵ではないかと思います。

ちなみに、「考えさして、おくれやす。」とは京都では 断り の常套句です。

京の ぶぶずけ」とは、京都の知人を訪ねたら、必ず、ねぎらいの言葉として出てくる常套句で、

「よう、来てくれはったな〜。 も−ちょっと、はよ、来はったら、おいしいスイカおましたのに。

さっき、丁稚ドンがみんな食べてしまいおした。」

(スイカなんか最初から無いのにそういう言い方をする)

「なにも、おへんけど、ぶぶずけ など どうどすエ〜」

この言葉につられて、千枚漬けなんか想像して上がりこむと、えらいことになります。

「あの人は、厚かましい人や、なにも おへん ゆ-てんのに、ずけずけ、上がりこんできはって、

うちの、おひつのご飯、全部かすらえてゆかはった。

おしんこも、千枚漬けも ねこそぎ食べて行かはった。

おかげで、えらい目にあいましたエ〜。」

事実は、冷ご飯に、冷めた出がらしのお茶をかけたもの、

菜っ葉の漬物一切れで、このように一生言われつづけます。

自分のソ−レン(葬式)の席で、また、死んでからも言われつづけるでしょう。

 

私の父、叔父、叔母もこの京都の祖母姉にお世話になったらしく、

亡くなるまで、京都通いをし、大阪人と馬鹿にされつづけました。

今になっては、なつかしい思い出です。

 

父と京都に行くときは、大阪から京都までJRで行き、

そこからタクシ−で四条烏丸まで乗って、室町蛸薬師の寿司屋に入ります。

そこで、父は寿司を肴に昼間から酒を飲み、

私はといえば、子供なので、寿司は与えられず、卵巻きとか、いなりで食事をしました。

その店の丁稚さんに祖母姉の家に、祖母姉とおじいさんが在宅かどうか、確認にゆかせます。

おじいさんが在宅であれば、にぎりと、酒を丁稚ドンに持たせて祖母姉の家に行かせ、

そのあとから、父とわたしが行くという算段でした。

これも、 ぶぶずけ への対策であったことでしょう。

 

いずれにしても、わたしは、なぜか京都が好きで、叔父、叔母がゆくときも必ずついて行きました。

夏休みや冬休みには私だけ残されて、おばーちゃんの家に泊まり、

御所や、二条城、六角さん、新京極につれていってもらったことを思い出します。

祇園祭や、時代祭り

五山の送り火はコップに水を入れて近くの小学校の屋上にあがり、

大文字を水に映して飲むと病気しない、と信じ、真剣に飲んだものです。

「やっちゃんは、エ−お子やね〜」 と、たいへんかわいがってもらいました。

なかでも、錦さん(錦市場)で買ってもらった、コロッケ、うまき卵の味は、いまだに忘れられず、

京に行ったときはかならず、錦さんに行きます。

 

京都のことを馬鹿にして書きましたが、(京人が大阪人をさげすんでいるので、おあいこですが)

全ての京人がそのようでなく、なかには、すばらしい京人もいることを書き添えます。

私の同級生、また、家内を通じての友人は、すばらしい方方で、常常尊敬しております。

 

新撰組ゆかりの壬生寺まで来てしまった。

 

往復約80キロの走行でしたが、老体より、20年使い込んだロ−ドレ−サ−(自転車)のほうが心配でした。

帰路は、バテバテで、何とか高槻までたどりついたものの、

箕面に帰りついたのは、日もとうに暮れ、よれよれでした。

ゆき、約3時間、帰り4.5時間の楽しい走行でした。


伏見の寺田屋

 

次の週に、箕面から昆陽寺に向けて走った。

 

 
赤松円心と六波羅軍の激戦地 (池田市豊島:箕面市瀬川 今井橋より)

 


足利軍と楠軍・新田軍の激戦地 箕面川と左から合流する石澄川(箕面市第一荘園橋より)

新田義貞がコモを着て隠れていて、やぶ蚊に足をさされ、たまらず、

蚊が!」 と叫んだそうな。

 


付近の3池を埋めた時の無縁仏供養塔(石橋)

瀬川、半町、石橋付近を工事すると、戦死者の遺骨が多数出てくるようです。

 


石橋いわれ石

この石は、阪急電車、石橋駅南の石橋南小学校の入り口に鎮座しており、

もともと、3.6x1.8メ−トルほどの一枚石で、

西国街道、能勢街道の交点(現在の鎮座場所の50メ−トルほど、北側)の

小川にかけられていたようです。

中央の穴は、七卿落ちのとき、馬上から京を振り返った三条実美卿の馬のひずめ跡と言われています。

卿の都落ちの悲しみが石に穴をあけたのでしょうか。

 


西国街道を寸断する大阪空港北部の高架道路(十二神社:池田市)

左側に地下道があり、二つくぐると、ちゃんと、向こう側に抜けれるよう、配慮されている。

 


巨大なクヌギとエノキがそびえる西宝寺(池田市)

榎の木は一里塚に植えられたといいますが、この木も距離の目印でしょうか。

 

  
栄楽寺と桂春団治之碑(池田市)

 


弁慶の泉(池田市豊島(てしま))

多田源氏、豊島冠者と戦った弁慶がこの泉で喉を潤したとか

 


浄源寺の大銀杏の木

  
浄源寺の鬼瓦

 
      天下泰平 風雨順時     猪名川西岸より軍行橋・箕面山脈を望む
日月清明 百穀豊登*********************************
寛政六年甲寅四月(1794年)*********************************
3つの碑の右端は、松尾芭蕉の記念碑**********************************
            

           

 
攝津の国の中心地 (辻の碑)         すぐありま(まっすぐ 有馬)

 

 
伊丹坂                  六地蔵

 


伝和泉式部の墓

 


すぐ西宮 (まっすぐ 西宮)


長勢橋 

禁門の変で敗走した長州軍が追い縋る幕府・薩摩連合軍とここでも戦った。

 

 
稲野村道路元●                水準●●

いずれも、地中に埋まって字が読めず。



 
旧西国街道の案内図

 

  
昆陽宿跡(住友電線)           昆陽寺(こやでら)

 

 
       獅々渡り内 ( ? )        昆陽寺近く(伊丹市寺本)

 


師直塚

高の師直(もろなお)、子 五郎、舎弟 高の師泰(もろやす)は、

足利義直(尊氏の舎弟)に討たれたと思っていたが、

解説では上杉能憲の待ち伏せにあって滅んだとか。

耕作の妨げになると、塚は崩されたが、大正四年に再建立され、

その後、国道拡張工事で、この地に移設された。

 

 
 武庫川の髭の渡し



厄神明天社(門戸厄神)




終点 西宮 札場筋

履歴

 

戻る

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送