谷 三十郎 (天保3年頃〜慶応2年4月1日)

備中松山出、弟の万太郎と周平(後に近藤勇の養子になる。)と3人で、新選組に入隊する。

元治二年一月八日夕刻、大阪瓦屋町のぜんざいや、石蔵屋を襲撃し

土佐藩士の大利鼎吉(おおとし ていきち)を討ち取った。

 

種田流槍術の名人で、「谷の槍は千石もの」 といわれた。

子母澤寛、司馬遼太郎は万太郎の方が兄としているが、三十郎の方が3才年上である。

また、司馬遼太郎は、周平は三十郎の倅であるとしているが、弟である。

子母澤寛の 「新選組物語」、司馬遼太郎の 「新選組血風録」 では、

田内知の切腹で見苦しい介錯をし、笑いものになったとある。

光縁寺にある田内の墓にも、過去帳にも慶応3年正月10日とあり、

同じ過去帳に 谷三十郎 慶応2年4月朔日とある。

三十郎の方が先になくなっており、見苦しい介錯劇はありえない。

 

三十郎は祇園石段下で殺害された。斉藤一と篠原泰之進が検死をし、

死因は胸から背中に貫く、左突きの一撃であったとしている。

槍の突きを右に払い、そのまま飛び込んで突きを入れたと思えるが、

背中まで、突き通す腕前には、恐怖をおぼえる。

斉藤一であろうとされている。

 

弟の万太郎は、兄の死後しばらくして離隊し、

維新後、大阪で道場経営。52歳で病死

周平は、近藤勇の養子になったものの

養子縁組を解消されている。

鳥羽伏見戦争時、大阪で脱走と、江戸で脱走説がある。

維新後、大阪府警察官を一時勤めたが、

神戸で病死。享年54歳。

 

上記の子母澤寛、司馬遼太郎、両氏の件は、その後の研究家諸氏の

調査・努力により判明したもので、作品を否定しているわけではありません。

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